家庭教師に求められる“父性”──信頼と境界のはざまで
こんにちは。オーダーメイド学習塾はつがの千田です。
家庭教師という仕事をしていると、学習の成果以上に、子どもの心に深く触れる場面があります。最近、そんな関わりの中で、ふとこんな思いが浮かびました。
「もしかすると今の彼にとって、僕は“家庭教師”というより“もうひとりの父親的な役割をする人”なのかもしれない」
■ 学ぶ前に、人とのつながりを求めていた子ども
ある男子生徒は、お父さんが海外赴任中で、長期休暇のときにしか顔を合わせることができません。日常的には、お母さんが一人で彼を支えてきました。お母さんは精一杯向き合っておられますが、思春期の男の子にとっては、父親の静かなまなざしや、言葉少なな背中にこそ、無意識に安心を感じる時期なのかもしれません。
彼も「お父さんがいないのにはもう慣れた」と、ときおり私にこぼします。その言葉にどこか、割り切ったような寂しさを感じました。
私は週に2回、彼の家庭教師をしています。このスタイルになってから、もう9カ月が経ちました。最初は会話もままならず、お母さまが横で同席されていました。しかしあるとき、彼のほうから「二人で話したい」と言い出して、お母さまに席を外していただくようお願いしました。
それ以来、彼は学校での出来事や、気になることを自然に話してくれるようになり、帰り際には「途中まで一緒に歩くよ」と言ってくれるようにもなりました。最近では、私が来る時間になると、玄関の近くで待っていてくれるのです。
ときどきお母さまとお話をしていると、私が彼の心情を推し量って言葉にしたことに、彼が「そう、そう、そう!」と割って入って説明してくれることもあります。それは、学習の成果以上に、信頼関係が育ってきた証なのだと思います。
■ 男性家庭教師だからこそ意識すべき“境界”
けれど、ここで大切なのは、「父性の代わり」として信頼されることと、「距離を見失わないこと」は全く別だということです。
たとえば女子生徒との関わりでは、こちらの信頼のつもりが、誤解や過度な依存に繋がってしまう危険もあります。男子生徒であっても、「この先生がいないとダメ」という状態をつくってしまっては、本人の自立の芽を摘むことにもなりかねません。
だから私は常に、**「信頼とは、境界のうえに成り立つもの」**と自分に言い聞かせています。どんな生徒に対しても、“対等な距離で見守る存在”であり続けること。親でも教師でもない、でも確かな眼差しをもって関わる第三者でいること。そんな姿勢を、本人にも、保護者の方にも大切にしています。
■ 学校を責めない。でも、任せきりにもしない
最近では、学校の対応に不満や不安を抱える保護者の声をよく耳にします。でも、学校を責めても状況は簡単には変わりません。同時に、すべてを学校に任せきるのも現実的ではありません。
だからこそ、私は“家庭”と“社会”のあいだに立つ存在でありたいのです。
生徒にとって、押しつけでもなく、放任でもない、ちょうどよい“真ん中の大人”として。
■ 最後に──“父性”とは、静かに、でも逃げずに関わること
“父性”とは、血のつながりだけで語れるものではないと、私は思います。
静かに見守ること。必要なときには真剣に叱ること。そして、どんなに面倒でも、逃げずに対話を続けること。
そんな行為そのものが、子どもにとっての“父性”になり得るのではないでしょうか。
そうしたことを考えていた矢先、先日の指導中に、彼にいくつかの質問をしました。
その中で「尊敬できる人は?」と聞くと、「ママ、家族」と答えたのです。
普段は照れくさそうにしていても、やはり日常をともに過ごすお母さまの存在は、彼にとってかけがえのないものなのだと、改めて実感しました。
私はこれからも、家庭教師として、その役割をまっとうしていきたいと思っています。
どんなに難しい子でも、信頼と境界を忘れずに、しっかりと向き合っていきます。